ヒグマと共に生きるため、 自分にもできることを。
知床半島にはおよそ400〜500頭ものヒグマが生息しているという。人は、高密度で暮らすヒグマと、適切な距離を保ちながら生きていかなければならない。はたして人とヒグマが共に生きるとは、どういうことなのか?
環境共生学類の卒業生である村上晴花さんは、〈北こぶしリゾート〉で広報マネージャーを務めながら、その答えのひとつとして、草刈りやゴミ拾いを行う「クマ活」を続けている。
村上晴花
〈北こぶしリゾート〉経営戦略室・広報マネージャー
大阪府出身。酪農学園大学環境共生学類、野生動物生態学研究室卒業。〈北こぶしリゾート〉の経営戦略室・広報マネージャーを務める。知床におけるヒグマとの共生のための「クマ活」を担当している。
未来に動物を救うための学問
大阪の下町出身の村上晴花さんにとって、ヒグマは遠い存在だった。周囲にいた野生動物と言えば、カラスやスズメくらい。動物との付き合いは家で犬を飼う程度だったが、それでも生き物が好きになったのは、近所の川でメダカやザリガニを捕まえたり、富士山に登ったり、父と一緒に自然の中で遊んだからかもしれない。高校生になる頃には漠然と動物に関わる仕事に就きたいと思うようになっていた。職業としてイメージできたのはトリマーや動物園の飼育員だが、どちらも自分に向いているとは思えなかった。進路決定の差し迫った高校3年生の12月、大阪府梅田で行われた合同説明会で、酪農学園大学のブースに座って、少し世界が開けた。
「担当の方に獣医になろうかと思っているんですと話したら、うちの環境共生学類も良いよと、こんな説明をしてくれたんです。
『獣医は目の前で倒れている鳥を助けることができる。環境共生学類で学んでも、目の前の鳥を助けることはできないかもしれない。けれど、バードストライクのせいなのか、気候変動が影響しているのか、それとも病気なのか、なぜその鳥が倒れているのかを調べることはできる。その原因がわかったら、次の、もっと多くの鳥を助けることができるかもしれない』
めっちゃいいこと言うやん、と思ったんですね。家に帰って改めて考えてもいいなと。それで受けることに決めたんです」
身近にクマがいるリアリティ
村上さんが初めてヒグマを意識したのは、大学2年生の6月。進級後にゼミを選択するため、公園の池で水質調査を行なったり、森に入って植物を採取したり、さまざまな実習に参加していた時期だった。あるゼミの実習で、2メートルもある丸太を担いで山へと向い、ヒグマのトラップを設置する手伝いをした。「重労働をさせられるなあ」と思いながら、地面に穴を開けて丸太を立て、鉄線を巻いて固定し、防腐剤を塗った。カメラを仕掛けて山から降りて、実習は終わり。村上さんのチームを担当していたゼミのOBが、「僕はトラップにやってくるヒグマについて、卒業論文を書いたんだ」と観せてくれた映像で、初めて身近にヒグマがいることを体感として知った。
「違う場所でしたが、トラップにやって来て背中を擦り付けるマーキング行動をしている動画だったんですね。『えっ?』って、衝撃を受けました。その実習でトラップを仕掛けたのは札幌の中心部から地下鉄に乗って、降りた駅から車で20分くらい。そんなところにヒグマがいることにも驚いたし、調査対象にできることにも驚きました。その映像のインパクトが凄すぎて、3年生になった時には、野生動物生態学研究室に入ることを決めていました」
年に数回、複数人で山に入り、フンを見つけて観察し、樹木につけられたマーキングの跡を探して歩く。純粋にヒグマの生態を調べることがゼミの目的で、当時はまだヒグマの農業被害や町に出没して人と接触してしまう事故が問題になることは少なかった。それでも大学4年生の9月、ヒグマの骨格標本を作るアルバイトのために知床を訪れて、少しずつ認識が変わった。1週間のアルバイト期間で、「知床にピンと来た」という村上さんは、卒業後にはこの地に住もうと決断する。〈北こぶしリゾート〉の運営を担い、知床の地名が法人名に入った〈株式会社知床グランドホテル〉に就職が決まった。
動物好きが駆除をしなければならない矛盾
ヒグマの骨格標本づくりの作業場は、知床財団の施設内にあった。酪農学園大学卒の先輩が勤務しており、鳥獣保護対策を行なっている方たちを含め、知床の自然を守るために働く、さまざまな人々に引き合わせてくれた。それまで学内では「どんな動物だろう?」と仲間たちと楽しく語らっていた研究対象としてのヒグマが、知床では人間と接触して問題が起きれば、駆除されてしまう現実を知っていく。
「知床財団の鳥獣保護対策の方々も、私と同じように動物が大好きで、動物について学び、その仕事に就かれているんですね。それなのに、実際にはクマを駆除しなければいけない立場になっている。歪みを抱えているように見えました。その歪みに対して、自分にできることがあるのかを考えても、全然、勉強が足りていない。知床財団に顔を出して、手伝えることはないか、訊くくらいしかできなかったから。それで個人的にゴミ拾いを始めたんです」
ヒグマは行動範囲が広い動物で、町に隣接する森でも暮らしているが、町へとやってきてしまう原因はいくつかある。ゴミや農作物によって招き寄せてしまったり、モラルのない観光客が餌をあげて人間の食べ物の味を覚えてしまったり。人や町に近づくことに抵抗がなくなってしまうと、人に危害を加える可能性が生まれてしまう。すると、その問題個体は、駆除対象となる。人が、問題個体を作り出しているとも言える。
入社3年目でレストランスタッフをしていた村上さんに、専務から「ヒグマ、詳しいんだよね?」と声が掛かった。それは〈北こぶしリゾート〉が創業60年を迎え、知床に恩返しをするために知床財団に相談したところ、ヒグマ対策のために草刈りをしてほしいと言われたタイミングだった。村上さんは、翌春からホテルとして取り組む、知床でヒグマとの共存を目指す活動「クマ活」を担当することが決まった。
人間と自然との好循環を探している
実際に「クマ活」で草刈りを行なっている場所を案内してもらう。世界自然遺産の登録地である森から、ゆるやかに町が始まる緩衝エリア。草刈りを行う5〜6月は、若いオスが親から離れて独り行動を始める「分散」と呼ばれる時期という。それまで暮らしていた森を強いオスに追われ、行動範囲を広げる。町に出てくるつもりはなくとも、草に覆われた良い隠れ場所があり、山菜が生えていたら、腰を落ち着けたいと思うだろう。この緩衝エリアに若いオスが居着いてしまい、駆除されてしまったこともあるという。けれど、ふらふらと森から出てきたヒグマも、草が刈られ、隠れる場所がなければ森に戻るしかない。ゴミ拾いも同様で、食べるものが容易に見つからなければ、ヒグマは森に帰っていく。
「ヒグマとの問題は、極端に言ってしまったら人がいなければ起こらないんです。世界遺産に登録された知床は、年間に100万人のお客様が訪れる観光地なんですね。漁師さんをはじめ、地域に暮らす方もいます。人がいるから問題が起こることもあるかもしれません。でも、人が訪れるから、自然が守られていくという好循環を作りたいんです。人がいればゴミはどうしても落ちてしまうものですが、拾う人が多くいればゴミはなくなっていく。そうなれば、ヒグマとの距離も適切に保たれるかもしれない。ヒグマとの事故を未然に防ぐことができれば、観光地として多くの人を受け入れられる。訪れる人たちが知床の自然を楽しむ機会も得られるのだと思います」
2025年からは、啓発活動の一環として「クマ活さんぽ」というタイトルで、ホテルの宿泊客がクマ対策のために、気軽にゴミ拾いができる企画もスタートしている。
仕事が始まる前によく散歩するという世界自然遺産内のトレイルも案内してもらった。腰にクマスプレーを携えた村上さんが、水以外の食べ物は車に置いておくよう、確認をする。知床自然センターの裏手にある「フレペの滝遊歩道」という、往復2kmほどのトレイルを歩く。観光客も気軽にアクセスできるトレイルだが、昨日もヒグマの目撃情報があったらしい。滝の脇には現役の灯台があり、そのためだろう、土を掘って作業をしている人たちがいた。作業者の安全確保に、オレンジ色のベストを着た猟友会のメンバーが立っている。「ちょっと挨拶してきます」と言って、村上さんは声をかけに行った。自身も狩猟免許を取得して猟友会に入り、年に数回、狩猟を教えてもらいながら鹿を捌く練習をしているという。
「狩猟としてヒグマを撃つ行為には、命の尊厳があると思うんです。けれど、人のゴミを食べて問題個体になって、人に危害を加える前に駆除されることには、やっぱり歪みを感じてしまう。野生のヒグマがいる森を歩くことは、素晴らしい体験になると思うんです。一生忘れられない出来事になるはずです。だからこそ、お互い不幸にならない形で出会ってほしい」
トレイルでヒグマとは出会わなかったが、エゾジカが顔を見せてくれた。「知床に遊ばせてもらっている」と笑う村上さんは、ほとんど観光客のいない朝に、この風景を独り占めしながら歩いているという。
フレペの滝から戻って知床自然センターに展示してあるヒグマの毛皮を触りながら、生態について聞く。村上さんは近くにいた観光客にも声をかけ、説明を始めた。その動きがあまりにも自然で、勤めているホテルのためだけでなく、知床の自然と共に生きて行こうと決めているのだと思った。
「もしもヒグマが町に降りてしまった時に、自分にできることは何もないんですね。かつてホテルの近くまでヒグマが来てしまい、鳥獣保護対策の方たちが駆けつけて対応している時にも、私はホテルの中で見ているしかできなかった。だから、悔しい気持ちもあるんです。最前線にいないことに。でも、自分の立場でできることをした方が、より良い世界を作っていけるのかなとも思うんです」
人とヒグマが共に生きる知床のために、村上さんは日々を積み重ねている。
Credit
- 取材・文
- 村岡 俊也
- 撮影
- 平野 太呂